ヒラリー・クリントンの名言 for 社畜
前回に続き、名言シリーズです。
惜しくも大統領戦に敗れてしまったヒラリー・クリントン、世界のキャリアウーマンの代表ともいえる女性ですよね。
そんな彼女の数ある名言の中でも、僕の大好きな名言を紹介させてください。
こちらも聞いた瞬間にゾワゾワっとした系の名言です。
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クリントン大統領夫妻が、ドライブの際にたまたま立ち寄ったガソリンスタンドのオーナーが、ヒラリーの昔のボーイフレンドだった。
クリントン「ヒラリー、僕と結婚してよかったね。もし彼と結婚していれば、今頃君は田舎のガソリンスタンドのおカミさんだ。」
ヒラリー「何を言うの。もし私が彼と結婚していたら、彼がアメリカ合衆国の大統領になっていたわ」
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もうね、カッコ良過ぎますよ。
努力に裏打ちされたみなぎる自信、絶対に誰にも媚びない姿勢、自分の人生は自分以外には決めさせないという意思をひしひしと感じますよね。
昔、数ヶ月だけ付き合っていた彼女に言われました。
「私は幸せになりたいの。」
本当に幸せを自分の力で掴みとろうと思っている人はこんなことを彼氏には言わないでしょう。
誤解を恐れずに言えば、現代の結婚観においてもまだ多くの女性が"自分を幸せにしてくれる人"を探しているように思います。
そんな受動的な考え方はやめて、"自分が幸せにしてあげたい人"を探してほしいと思います。
そうすれば、自分の人生が自らの手の中からこぼれることはないでしょう。
少しテーマからそれてしまうので、このあたりの話はまたどこかで書きたいと思います。
社畜的解釈
社畜として日々上司からの頼まれ仕事に追われているとき、一体自分は誰のために働いているんだろうとふと疑問に思ったとき、このヒラリーの名言を思い出してみましょう。
あなたの働きは、上からのあなたの上司への評価にも繋がります。
あなたの上司が尊敬に値する人物なら、その上司に出世してもらうためにも、精一杯良い仕事をしていきましょう。
仮にあなたの上司が全くもって尊敬に値しない人物だとしても、やはり良い仕事をしていくしかありません。
悲しきかな、この会社組織においてはあなたの評価はあなたの上司にしかできないのです。
あなたの上司が評価されず、その低評価の上司からあなたも評価されなかったときが最悪のケースです。
基本的に社畜は上司を選ぶことは出来ません。
くそ上司に当たってしまった運の悪さを呪う暇があったら、そのくそ上司が評価がされるために、そしてその上司に自分の仕事を評価してもらうために、腐らずにやるしかありません。
それがどうしても耐えられないレベルで嫌なら、違う環境(会社、部署)を探しましょう。
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社畜である僕と先日部長に昇格した上司がたまたま立ち寄った事務下請け子会社の一角で、積み上がった書類に黙々と印鑑を押し続けている人物がいた。
かつて僕がいた部署で隣の課の課長だった人物だった。
上司「お前、俺の課に配属されてよかったな。あいつの課に配属されていたら、今頃お前はあそこで書類を渡す係だ。」
僕「何を言っているんですか。もし私が彼の課に配属されていたら、今頃は彼が部長になっていましたよ。」
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…言ってみたいですね…。
スヌーピーの名言 for 社畜
みんな大好きスヌーピー。
ただ見た目が愛らしいだけでなく、人間ぽくてナルシストでたまに達観したりして本当に魅力的なキャラクターですよね。
そんなスヌーピーも、実は僕ら社畜の心に響く名言をいくつも言っているんです。
そんな中から、今回は僕が一番好きな言葉を紹介します。
それは、いばりんぼでわがままのルーシーと、スヌーピーとの会話から生まれます。
ルーシー「Sometimes I wonder you can stand being just a dog ….」
(時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ)
スヌーピー「You play with the cards you’re dealt …whatever that means 」
(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ)
いいですねー、スヌーピーのこの回答。
トランプのカードゲームのポーカーに例えてるんですね。
5枚のカードが、人によっては配られた段階でフルハウスになっているかもしれないし、ワンペアかもしれない。
始めの手元のカードがなんであれ、プレイヤーはそのカードを使って勝負するしかない、ということですね。
スヌーピーは、なぜ自分が犬であるのかということに疑問を持ったことはあるものの、疑問を持ったところで何も変えることはできないのだから犬として精一杯生きようと、どこか達観しつつ現実を受け入れたという経験があるのでしょうね。
イケメン、ブサイク、髪がある、髪がない、運動神経がいい、悪い等々、自分ではどうしようも出来ないことなのに人生の方向性を大きく決めてしまうようなことってたくさんありますよね。
そういったものは、嘆いたって何も変わらないんだから全て受け入れるのが一番だよ、とスヌーピーは教えてくれているのです。
配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ
この言葉を始めて見たとき、僕は全身にゾワゾワっと何かが上ってきました。
当時僕は企画部署にいたのですが、計数管理担当で、その分野の知識やスキルについては自信があったものの、その担当業務の地味さに辟易していた頃でした。
企画部署に転勤になったときには少し誇らしい気持ちになっていたものの、与えられた仕事は計数管理でした。
正しいのが当たり前、間違えれば怒られるという、なんともやりがいを感じるのが難しい業務なんです。
それでも自分なりに努力もして計数関連は社内でも一目置かれるようになったにもかかわらず、やはり光が当たるのは企画推進をやっている人間。それが同期だったり後輩だったりすることもよくありました。
僕も計数と企画を同時にやればよかったじゃないかと言われればその通りなのですが、当時の僕は、計数担当は上からは全然評価されないとただただ愚痴っているだけのひどい男でした。
そんな僕の目に入ってきたのが、このスヌーピーの言葉です。
あぁ、その通りだなと。
もうそれしか言えないです。当時の僕宛てのアドバイスとしてこれ以上の言葉はないですね。
他の同期達と比較して僕の上からの評価が低く、かなり落ち込んでいたときだったのですが、これを読んでとっても気持ちがラクになったのを覚えています。
自分はこんなことを愚痴るだけで人生を浪費するわけにはいかない。本気で人生を生きていこうと、強く思いました。
それから英語を勉強して運良くシンガポールに赴任でき、今は企画を担当しているのてますが、当時身につけた計数管理力が企画を具体的に進めて行くうえで非常に役立っています。
スヌーピー、ありがとう。
ハンドスピナー 〜幻影蝶(Next x)〜
前から気になっていたんですよ、ハンドスピナー。
どうやら日本で流行っているとネットニュースとかで見て、もしシンガポールでも売ってたら買おうかなーなんて思っていたんです。
今日何の気なしに家族でブギスを歩いていたら、見つけました。ハンドスピナー!
ベーシックな三又タイプの他にも、二又だったり、楕円だったり、金属だったりプラスティックだったり、デザインも色々あるんですねー。
色々な種類がある中で僕が選んだのは、この幻影蝶。(ネーミングセンス!)
もう見た目から好き。
僕がそもそもメタリック好きっていうのもあるのですが、この虹色メタルもいいですよね。
掌にフィットする大きさと重量感で、僕の息子もこの幻影蝶を持ったあとはしばらく離しませんでした。
思いっきり回してみると、2分ちょっとは回り続けますね。でもハンドスピナーにしてはまだ短いのかな…?
これは日本では売ってないんですかね?ネットで探してもこの幻影蝶ハンドスピナーは見つかりませんでした。
(※5/22にAmazonジャパンで発見し、正式名称?が分かったのでタイトルを少し編集しました。)
社畜としては、このハンドスピナーをデスクで回しているうちに企画のアイデアを閃いたり…なんてことを妄想しますが、現実はそんな甘くないでしょう。
シンガポール人の同僚達から物珍しさで注目され(ただ回るだけのものに40ドル払ってますから!)、上司からは苦笑いされ、日本人の同僚からはまだ余裕だなって思われるんでしょう…。
でも、僕は回しますよ!
うちの一歳の息子はタイヤとかを回すのが大好きですから、この"回す"という行為は人間の本源的な欲求のどこかに影響しているのかもしれません。
大人でもこれを回していると少し落ち着くような気がしますし、何か無意識に満足しているんでしょうね。
ベアリングの高度な技術が使われているのに対して遊び方がとてもシンプルで、何か不思議な魅力を持っているアイテムです。
うーん、これはハンドスピナーの金属シリーズをコレクションしたくなりますね。
ごろっとグラノーラから考える
ごろっとグラノーラ、これは美味しい!!!
今は縁あってシンガポールで働いているのですが、ごろっとグラノーラが買える国で本当によかったーと思えるくらい好きですねこれ。
メープルの甘さとフルーツのごろっとした素材感、食べてるときに脳がどんどん満足していくのを感じます。
10年前にはこんなグラノラなかったですよね!?
誤解を恐れずに言えば、「フルーツをもっと大きくカットしたほうが素材感が出て美味しい」「メープル仕立てにしてみよう」と10年前に気付くことができれば、自分もこんなヒット商品を開発出来たかもしれない!なんて思ったりもします。(もちろんそんな簡単なもんじゃないのは百も承知ですが…)
当時は、グラノラとはこういうものだ、と店頭に並んでいるグラノラに何の疑問も不満も持たず、ある中から1番美味しいと思うものを選ぶだけでした。
意外とみんなが当たり前だと思っていることの中にも、ちょっとした工夫をするだけで満足度が急激に上がるものもあるのかもしれないですね。
先日、自分の使っているマックス社のホチキスをシンガポール人の同僚に貸したところ、「力を入れずにこんなに簡単に留められるなんて!」と感激していました。
確かに使い比べると全然違うんですよね。
このホチキスにしても、従前の"ホチキスにはこの位の力を入れるのが普通だ"という固定観念にひっくり返したんですね。
こういった「固定観念をひっくり返すような商品開発」は日本のお家芸といえるんじゃないかと思います。
何故って、僕の経験則に基づくイメージですが、日本人が最も繊細で人の機微を感じとれる民族だからです。
ただ、iPhoneのように世の中を変えてしまうような革新的な発明は日本からは出にくいんでしょうね。
それは教育の問題かもしれません。
皆と違うことを良しとしない教育の中では、常識にとらわれない柔軟な発想をできる思考回路はなかなか培われないんでしょう。
一方で、他の人がどう考えるかということに気を使いながら育ってきているので、潜在的な顧客ニーズの発掘や、顧客満足度の向上は日本人の得意とするところですよね。
シンガポールで働いていると、外から日本がどう見られているのかよくわかります。
誇りを持てる良い話もあれば、残念な話もあります。
そのあたりについても、どこかで書いてみたいと思います。
涙のわけ
ポルコです。
一緒に仕事をするメンバーは自分で決められないことのほうが多いから、お互いに期待どおりにならないことなんてよくあると思います。
今日のことなんかはよくあることなのかもしれないですが、少し残念な気持ちになりました。
同僚の女性社員(事務職ではなく幹部候補生)とあるプロジェクトを進めているのですが、スケジュールを踏まえて今日やるべきタスクをごく普通に伝えたところ、急に不機嫌になり、どんどん涙目に。
今日は彼女が新入社員向けの部署紹介のプレゼンをする日だったので、タスクが重なったことが原因だったようです。
そのプレゼンは10分もない位で、資料も既存資料を使うだけだったのですが…。
お昼ご飯の時も泣いていて、ろくに話も出来ませんでした。
午後すぐ、その新入社員向けのプレゼンが終わり、少し晴れやかな顔になって帰ってきました。
そして、予定していたプロジェクトのタスクは終わることのないまま6時に帰りました。。。
いやまあタスクが終わってなくても、定時ですからもちろん帰る選択もあると思います。
気になったのは、涙、です。
お昼まで泣いていたあの涙は、一体何のための涙なのか?
精一杯頑張ったのに結果上手くいかなかったときの悔し涙、ではないですよね(そもそもまだ結果もないし)。
では何か。
私、こんなに頑張ってるのに皆分かってくれない。また仕事を増やされる。なんてかわいそう。
という、"私かわいそう涙"ですね。
もうガキじゃないんだから仕事中はやめてくれと。ほぼタスクはひとつなんだし…。
泣くと雰囲気も悪くなるし、皆もそれが"私かわいそう涙"だって分かっているし。きっと本人だけはその涙の理由を深く考えられないんでしょうね。
まあ泣くことで交感神経と副交感神経のバランスが整って、気持ちも落ち着くというのは分かるのですが。
僕の尊敬する女性幹部の方は、ある女性社員に対して「泣くなら必ずトイレで泣きなさい。人前で涙を見せたら負けよ」と言っていました。
さすが、覚悟が違いますし、分かっていますね。
タスクがたくさん来ているなら、そのタスクを全部うまくこなして能力の高さをアピールできるチャンスだと思うんです。
マルチタスクをこなしているうちに、上からも「あいつなら上手くできそうだから、この大きなプロジェクトも任せよう」となってチャンスをものに出来るでしょうし、既にやりたいことがあるなら、実績を残すことで自分のプロジェクトを立ち上げることも出来るでしょう。
もし彼女が事務職であれば全く問題ありませんでした。
むしろ仕事を振り過ぎてしまってすいません、となります。
ただ、彼女は幹部候補生として頑張りたい、頑張れると言ったのです。
残念ながら、これで当分は彼女に重要なプロジェクトはまわってきません。
キャパの大きさが知れてしまったので。
涙は女の武器、なんて言ったりしますが、こと仕事においては未来をマイナスに変えてしまうかもしれない危険な武器ですので、意図せず出てしまいそうなときにはご注意を。
プランAとプランB
今日、とある外資系コンサルタント会社との打合にて、あまりに納得のいかないことがあったのでここに吐き出します。
もともと、社内のある重要な数字を算出するための計算モデルの更改プロジェクトがあり、その最終局面、部長以上のマネジメントへの説明資料をどう作るかというステージでその事件は起きました。
僕「既存モデルと新モデルでの出来上がりの数字の変動要因を説明するにあたって、これまでプランAで進めようと話してきましたが、内部でもう一度議論した結果、新たに考えたプランB で見せたほうがいいだろうという意見でまとまりました。御社から見てもそう思いませんか?」
コンサル「そんな話は聞いていない。既にプランAで準備を始めているから、今からプランB に変えることは出来ません。」
僕「!?。まずはマネジメントがどのような説明を求めているのか、という視点で考えましょうよ。以前にプランAとしていたのは申し訳ないけれど、マネジメントからの分かりやすさを重要視したら、プランB ですよね?」
コンサル「そういう問題ではありません。」
僕「そういう問題です!」
と、まあコンサルタントのくせに、手段が目的に変わってしまっていたんですね。
コンサルタントとして高い金払って雇っているのに、これじゃあ僕らの指示で手を動かすだけのただの事務屋ですよ。
手段が目的になってしまうパターンは会社の若手に多いかもしれないですね。
先輩や上司に頼まれた仕事の範囲については理解して確りとこなす、というだけでは永遠に彼らの期待値を超えることはできません。
例え頼まれ仕事であっても、その真の目的をちゃんと理解してから仕事に取り組むことで、足りていない部分や意味のある補足材料が見えてきて、始めて期待値の120%に到達するための足場が出来上がるのです。
ちなみに
コンサルタントとの件ですが、僕らがより具体的な方法を提示していくことで最終的にはプランB で合意できました。
一応、誤解のないように申しておくと、コンサルタントにも優秀な人材はたくさんいます。
企業の経営課題に真剣に向き合いながら誠心誠意考え抜いて仕事をしているコンサルタントがいることももちろん知っているので、だからこそ、今回のがっかり感が強かったのかもしれません。
続・鬱間近の社畜の君へ
新人研修時代、僕の度重なるミスが担当講師の逆鱗に触れ、会社を辞める以外の選択肢が考えられなくなるほど追い詰められました。
絶望のまま講師の追い込み部屋を後にし、辞表を書くための便箋を買いに行こうかと研修所を出ようとしたところを、別の講師に呼び止められました。
その別の講師は事情を理解していたようで、僕と話すために声をかけてくれたようです。
ただ、まさか僕がそこまで追い詰められていたとは思ってなかったようで(そりゃ研修ですからね…)、動揺しつつも、必死に僕が辞表を書くのを止めてくれました。
気がついたら僕は泣いていました。涙が止まりませんでした。
不思議なもので、あんなに重たい恐怖と悲しみの中にいたときは涙なんて全く出なかったのに、人に優しくしてもらった途端に気が緩み、一気に感情の波に押しつぶされました。
次の日、僕は辞表ではなく反省文を提出しました。
僕を追い込んだ例の担当講師はそれに納得がいかなかったようで、クラスの朝会にて先日の僕のミスの内容について言及し、 (僕の名前は伏せて)「こんな奴はいらないので、早急に身の振り方を考えるように」と言いました。
そこからの日々は地獄でした。
もともとその担当講師は熱血系でよく皆に話しかけるキャラだったのに、僕だけは徹底的に無視をされるのです。
クラスの連中は同情さえすれど、もともと僕のミスがきっかけですし、研修中は講師が絶対的な存在に映っていますから、誰も講師のやり方に異を唱えるものはいませんでした。
僕は段々と、こんなクソみたいな人間を講師にする会社そのものに対して不信感を持つようになりました。
そういう心境になるにつれ、この会社に就職できたことへの誇りやプライドなんてものはなくなり、「研修が終わったら第二新卒として就職活動をしよう」と真剣に思うようになりました。
こうなると、もはやこの講師に何を言われようが怖くはありません。ムカつくけど、ただの可哀想なおっさんだな、と思えるようになったのです。
もちろん当時の僕は若く、それだけで市場価値があると思っていた時代の話ですけどね。
恐怖がなくなったことで、担当講師に対しても堂々と振る舞えるようになりました。
一度、講師統括、担当講師、及びクラス全員の前で数分間のスピーチをする機会がありました。
テーマは自由。
僕はマネジメントに関するとあるビジネス書を読み、メインテーマのひとつになっていた「褒めて伸ばすこと」について、いかにそれが合理的で有効な指導方法なのかを熱く語りました。そして同時に、感情的に怒りをぶつけるような叱り方がいかに稚拙で不毛な行為かについても熱く語ってやりましたよ。
もう気持ちが入ってますからね。
終わったときには講師統括から、今までで一番面白いスピーチだったと言ってもらえました。
担当講師は複雑な顔をしていたのを覚えています。
そして僕と担当講師の間の溝は埋まることのないまま新人研修の期間は終わり、僕はあまり期待されてない人材として営業店舗に送り出されました。
僕はもう会社には期待していなかったので、それなりに覚悟を持って配属店舗に赴きました。もちろん転職活動のタイミングも考えていました。
しかし、その営業店舗で待っていたのは、威厳と人格を兼ね備えた上司だったのです。(この方はその後役員になられました)
そしてお店の先輩達も緊張感の中で生き生きと仕事をしているように見えました。
厳しくも論理的に、ときに愛情をもって指導をしてくれる上司と諸先輩方の中で揉まれるうち、転職したいという気持ちは消え、早く先輩方と同じように仕事が出来るようになりたいと強く思うようになっていました。
つまり、何が言いたいかと申しますと、自分をとりまく環境が、仕事のモチベーションや健全な心身を維持するために最も大切であるということです。
今が苦しければ、環境が変わるのを待つか、待てないのであれば自ら環境を変えるように動くか、どちらかしかないかと。
僕の場合は運良く環境が変わりましたが、定期的な転勤などが無い方は、思い切って行動あるのみ、と思います。