プランAとプランB
今日、とある外資系コンサルタント会社との打合にて、あまりに納得のいかないことがあったのでここに吐き出します。
もともと、社内のある重要な数字を算出するための計算モデルの更改プロジェクトがあり、その最終局面、部長以上のマネジメントへの説明資料をどう作るかというステージでその事件は起きました。
僕「既存モデルと新モデルでの出来上がりの数字の変動要因を説明するにあたって、これまでプランAで進めようと話してきましたが、内部でもう一度議論した結果、新たに考えたプランB で見せたほうがいいだろうという意見でまとまりました。御社から見てもそう思いませんか?」
コンサル「そんな話は聞いていない。既にプランAで準備を始めているから、今からプランB に変えることは出来ません。」
僕「!?。まずはマネジメントがどのような説明を求めているのか、という視点で考えましょうよ。以前にプランAとしていたのは申し訳ないけれど、マネジメントからの分かりやすさを重要視したら、プランB ですよね?」
コンサル「そういう問題ではありません。」
僕「そういう問題です!」
と、まあコンサルタントのくせに、手段が目的に変わってしまっていたんですね。
コンサルタントとして高い金払って雇っているのに、これじゃあ僕らの指示で手を動かすだけのただの事務屋ですよ。
手段が目的になってしまうパターンは会社の若手に多いかもしれないですね。
先輩や上司に頼まれた仕事の範囲については理解して確りとこなす、というだけでは永遠に彼らの期待値を超えることはできません。
例え頼まれ仕事であっても、その真の目的をちゃんと理解してから仕事に取り組むことで、足りていない部分や意味のある補足材料が見えてきて、始めて期待値の120%に到達するための足場が出来上がるのです。
ちなみに
コンサルタントとの件ですが、僕らがより具体的な方法を提示していくことで最終的にはプランB で合意できました。
一応、誤解のないように申しておくと、コンサルタントにも優秀な人材はたくさんいます。
企業の経営課題に真剣に向き合いながら誠心誠意考え抜いて仕事をしているコンサルタントがいることももちろん知っているので、だからこそ、今回のがっかり感が強かったのかもしれません。
続・鬱間近の社畜の君へ
新人研修時代、僕の度重なるミスが担当講師の逆鱗に触れ、会社を辞める以外の選択肢が考えられなくなるほど追い詰められました。
絶望のまま講師の追い込み部屋を後にし、辞表を書くための便箋を買いに行こうかと研修所を出ようとしたところを、別の講師に呼び止められました。
その別の講師は事情を理解していたようで、僕と話すために声をかけてくれたようです。
ただ、まさか僕がそこまで追い詰められていたとは思ってなかったようで(そりゃ研修ですからね…)、動揺しつつも、必死に僕が辞表を書くのを止めてくれました。
気がついたら僕は泣いていました。涙が止まりませんでした。
不思議なもので、あんなに重たい恐怖と悲しみの中にいたときは涙なんて全く出なかったのに、人に優しくしてもらった途端に気が緩み、一気に感情の波に押しつぶされました。
次の日、僕は辞表ではなく反省文を提出しました。
僕を追い込んだ例の担当講師はそれに納得がいかなかったようで、クラスの朝会にて先日の僕のミスの内容について言及し、 (僕の名前は伏せて)「こんな奴はいらないので、早急に身の振り方を考えるように」と言いました。
そこからの日々は地獄でした。
もともとその担当講師は熱血系でよく皆に話しかけるキャラだったのに、僕だけは徹底的に無視をされるのです。
クラスの連中は同情さえすれど、もともと僕のミスがきっかけですし、研修中は講師が絶対的な存在に映っていますから、誰も講師のやり方に異を唱えるものはいませんでした。
僕は段々と、こんなクソみたいな人間を講師にする会社そのものに対して不信感を持つようになりました。
そういう心境になるにつれ、この会社に就職できたことへの誇りやプライドなんてものはなくなり、「研修が終わったら第二新卒として就職活動をしよう」と真剣に思うようになりました。
こうなると、もはやこの講師に何を言われようが怖くはありません。ムカつくけど、ただの可哀想なおっさんだな、と思えるようになったのです。
もちろん当時の僕は若く、それだけで市場価値があると思っていた時代の話ですけどね。
恐怖がなくなったことで、担当講師に対しても堂々と振る舞えるようになりました。
一度、講師統括、担当講師、及びクラス全員の前で数分間のスピーチをする機会がありました。
テーマは自由。
僕はマネジメントに関するとあるビジネス書を読み、メインテーマのひとつになっていた「褒めて伸ばすこと」について、いかにそれが合理的で有効な指導方法なのかを熱く語りました。そして同時に、感情的に怒りをぶつけるような叱り方がいかに稚拙で不毛な行為かについても熱く語ってやりましたよ。
もう気持ちが入ってますからね。
終わったときには講師統括から、今までで一番面白いスピーチだったと言ってもらえました。
担当講師は複雑な顔をしていたのを覚えています。
そして僕と担当講師の間の溝は埋まることのないまま新人研修の期間は終わり、僕はあまり期待されてない人材として営業店舗に送り出されました。
僕はもう会社には期待していなかったので、それなりに覚悟を持って配属店舗に赴きました。もちろん転職活動のタイミングも考えていました。
しかし、その営業店舗で待っていたのは、威厳と人格を兼ね備えた上司だったのです。(この方はその後役員になられました)
そしてお店の先輩達も緊張感の中で生き生きと仕事をしているように見えました。
厳しくも論理的に、ときに愛情をもって指導をしてくれる上司と諸先輩方の中で揉まれるうち、転職したいという気持ちは消え、早く先輩方と同じように仕事が出来るようになりたいと強く思うようになっていました。
つまり、何が言いたいかと申しますと、自分をとりまく環境が、仕事のモチベーションや健全な心身を維持するために最も大切であるということです。
今が苦しければ、環境が変わるのを待つか、待てないのであれば自ら環境を変えるように動くか、どちらかしかないかと。
僕の場合は運良く環境が変わりましたが、定期的な転勤などが無い方は、思い切って行動あるのみ、と思います。
鬱間近の社畜の君へ
何もしていないのに、気付いたら涙が出てませんか?
ネコを見て、どうして自分は人間として生まれてしまったんだろう、ネコになりたい。と真剣に思うようになっていませんか?
もうやめましょう。
あんな奴のためにあなたの人生を浪費したら勿体無いです。
…と、そんなことは頭では理解していても、やはり明日は会社に行かなければいけないですし、会社を辞める覚悟もなければ、上司に言い返すほどの勇気も出ず、冷静に自分の状況を考えることすら出来ない状態かもしれないですね。
鬱間近の社畜の状態にあるということは、確実に環境(特に上司)が最悪です。
何が何でも環境を変える必要があります。
少し会社を休んでみても、同じ環境に戻ってきたのでは解決にはならないでしょう。
そして鬱の症状が重くなってしまった場合、環境が好転した後も上手く自分のパフォーマンスを出せなくなってしまうという話もよく聞きます。
やばいな、と思ったら出来るだけ早く環境を変えることが一番大事かなと思うのです。
僕の新人研修時代
僕の話をします。
僕が社会人になって最も辛かった次期は、新人研修です。
え?ってなったかもしれないですが、僕が勤めている会社はそれなりに有名な大企業で、集合新人研修の期間は数ヶ月もありました。
研修期間は学校と同じです。
毎日教室に行って、授業というか講習を受けたり、グループワークしてプレゼンしたりする。これだけ聞くと、なんてラクなんだ!と思うかもしれませんが、当然給料が発生していますから、学校のようなユルい感じには一切なりません。
僕はその研修中に立て続けに大きな失敗をし、担当講師(社員)の逆鱗に触れました。
朝に講師が全体に向けて注意したことをその日の夕方にしでかしたりしたので、その講師からすると、俺のことをナメてんのか!となったんでしょうね。
その日の研修終了後、皆が帰った後に私だけ別室に呼び出され、僕はその講師にただひたすらに罵倒され続けました。
「腐ったみかんが箱の中にひとつでもあると他のみかんも腐らせるんだ!お前が辞めないと他の連中も腐ってしまう。だから今すぐ辞表を出せ!」
僕はひたすらに謝りました。それ以外にどうしていいか分かりませんでした。
「誠意を見せてみろよ」
僕は土下座して謝りました。屈辱とかそういう感情もその時はどこかにいってしまっていたようです。
「てめえの安い土下座なんかじゃなんも意味ねーんだよ」
じゃあどうしたらいいんですか…。
相手に僕を許すつもりはさらさらなく、ただ僕に土下座をさせて自尊心を満足させたかっただけなのだとわかりました。
同時に、僕には辞める以外の選択肢は残されていないのだと悟りました。
就活を頑張り、運良く大企業に就職が決まり、せっかく両親を安心させることが出来たのに、こんな形でこんなに早く終わってしまうのか…。と妙に冷静に悲しくなっている自分がいました。
その担当講師は「明日の朝、辞表を出せ」と捨て台詞を残して部屋を後にしました。
一人残された僕は、絶望に打ちひしがれ、ミスをした自分の能力の低さを呪いました。
なぜかその時は、その講師が間違っている、という考えは一切浮かびませんでした。
(次回に続きます)
社畜的緊張感の分類
前回、社畜の定義を
「会社(職場)に行くときに緊張する人」
としました。
嫌なのに行かなければ行けない、それが会社ですね。
でも人によってその嫌な度合いも種類も違うと思います。
そこで、社畜的緊張感を分類してみます。
社畜的緊張感の分類
「自分の意見や方法の内容如何に関わらず、何かを上司(稀に顧客)に言うこと自体に大きな恐怖を感じる人」
これは、それまでに何度も何度も失敗し、失敗の度に人間否定をされ続けてきたことにより、もはや何を言っても確実に上司に人間否定をされるという恐怖に心を支配されてしまっている人です。
ここに陥ると、もはや正常な思考ができなくなり、いつ本人が潰れてもおかしくない状況です。
これに該当するケースを「鬱間近の社畜」とします。
続いて
「自分なりの意見や方法を持つことができず、持っていないことそれ自体について上司(稀に顧客)に厳しい指導(たまに人間否定)を受け続け、会社員としての思考方法を見失っている人」
これに該当する人を「思考ロスの社畜」とします。
「自分なりの意見や方法はあるものの、その内容や質が上司(稀に顧客)の求めるレベルに至っていないことが多く、その度に厳しい指導(たまに人間否定)をされるため、完全に自信を失ってしまっている人」
これは「自信喪失中の社畜」ですね。
「自分なりの意見や方法はあるものの、その内容や質が上司(稀に顧客)の期待するレベルかどうかが心配で、期待に応えたいというプレッシャーによって緊張している人」
これに該当するケースは「対プレッシャーの社畜」とします。
これくらいが丁度良い分類かなと思うのですが、どうでしょう。
書いてあることは全部分かり切ったことじゃん、と思われるかもしれませんが、自分が緊張状態にいるときには意外とその本質的な原因までを頭で整理することができなくなっていたりします。
極度の緊張状態に陥っているとき、自分は一体何にどうして緊張しているんだろう、と冷静になって緊張の原因を自分の中で明らかにしてみることを続けると、その場その場の対応だけではなく中長期的な目線でも対応策を考えることができるように思います。
緊張というものは外部環境(上司、顧客)と自身の内面(能力、自信)の関係によって決まるもので、一定に留まるものではないんでしょうね。
ちなみに僕の場合だと、今は日常の90%くらいは「対プレッシャーの社畜」です。
残り10%くらいは「自信喪失中の社畜」ですかね。
昔は長いこと「自信喪失中の社畜」だった時期もありましたし、「思考ロスの社畜」になっていた時期もありました。
人によって、"自信を失いやすい"、"恐怖に弱い"等々、傾向は出ると思いますが、いつも何に緊張をしているのかを正確に認識することは大切だと思います。
ちなみに僕は今、明日の仕事の準備不足で緊張していますが、これは上司の期待に応えられなかったらまずいというプレッシャーによる緊張ですね…。
社畜やめますか?社畜レベル上げますか?
「安い仕事はやらねぇぜ」なんて言いながらアドリア海上をサボイアS.21で颯爽と飛んでいたい。
そんなことを夢見ているものの、当然現実は程遠く、どう転んでも日本海上をバナナボートで跳ねるのが精一杯のしがない会社員です。
ポルコといいます(ニックネームです)
日本の社畜のよりよい未来のために色々書いてみたいと思い、ブログを始めてみることにしました。
日々思うことや気づいたことをサラリーマンなりに深掘りしていきたいと思います。
社畜の定義
早速ですが、社畜の定義って何ですか?
ウィキペディアによると以下のような定義だそうです。
会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷と化したサラリーマン、またはOL。
要は、会社からの指示に従うのみで思考停止している会社員、ということですかね。
しかし、この定義って「指示待ち人間」ですよね。どちらかというと会社側にデメリットをもたらす会社員、という意味合いが強いように聞こえます。
「社畜」はもともとは1990年のバブル末期に作られた言葉のようですから、当初は意外と指示待ち社員を揶揄する言葉としても使われていたのかもしれないですね。
しかし社畜をこの定義とすると、「社畜から変わりたい」というような言葉を発したときに、その言葉の持つ意味が「画期的な施策を企画立案して、会社に貢献していきたい」というような、有能な会社員の期首コミットメントのように聞こえてしまいます。
それはそれでもちろん素晴らしいことなのですが、それを実現したいということであれば、既に数えきれないくらいの自己啓発本やビジネス書が出版されてますね。
では社畜の定義を、社員+家畜、というそのままの意味で捉えたらどうでしょう。
酪農家が持つ牛や豚と同じ性質ということですから、家畜(社畜)をやめて野生(独立)で生きていく力はないけど、餌(給料)もほどほどもらえるし、ストレス少ないし、現状に希望もないけど不満もない。
…こういう人、普通に結構いますよね。
不満がないんだから全く苦しんでもなくて、僕がイメージする社畜とは違うかなと。
会社が潰れたときには一気に苦しい立場に追い込まれるタイプの人達ではありますけどね。
僕がこのブログで定義する社畜とは
「会社(職場)に行くときに緊張する人」
どうでしょう?
いやいやそれ働いてる人ほぼ全員じゃん!?
ってツッコミがあるかもしれませんね。
この社畜には当然「会社に行くことが楽しくて仕方のない人」は含まれませんし、「会社に行くことに何も感じない人」も含まれません。
朝、通勤中の会社員が
「あー、会社行きたくねーなぁ。今月数字いってないし、ミーティングでまた怒られるし。こんな憂鬱な気分なのに会社に行かないといけないなんて、俺ってほんと◯◯だなー。」
って呟いたときに、◯◯に入るのに最もふさわしい言葉は何か?って問題を出したら、結構な確率で「社畜」っていう回答がくると思いませんか?
そしてたいていの会社員は、毎朝こんな感じなんじゃないかと(笑)
ポイントは、会社に行くのに緊張している、ということであり、それこそが日本を支える社畜達の成長源泉でもあると思っています。
ただ、もちろん度合いによりますので、その社畜的緊張感の種類分けも必要ですね。
ですが、ここから先の話は次回書くことにして、今回は初回投稿なので今後このブログで書いていきたいテーマについて言わせてください。
社畜レベル向上プロジェクトとは
テーマは「社畜としての仕事レベルの向上を目指す」です。
僕には会社をやめて独立するほどの勇気はありません。守るべきものもありますし。
最近は、脱サラ、起業して成功した人の体験談や、それこそユーチューバーなどの新たな生き方が注目されがちですが、正直僕にはまだ縁遠い話です。
そういう人達の姿を今の自分と重ねることができないので、彼らの立派な言葉も僕の心にまでは響いてこないのです。(これは僕の問題で、そのような生き方を選択できる方は本当に羨ましいですし、尊敬しています)
かといって、各分野、各会社で常にトップを歩んでいる会社員の成功談やそのコツを聞いても、とても僕にはマネできないものだと感じてしまい、これもまたなかなか響かないのです。もちろん勉強にはなるのですが。
そんな別世界で活躍をしている人達ではなく、本気で社畜をやっている人間にしか社畜のための記事なんて書けないのではないかと感じたのが、このブログを始めてみようと思ったきっかけのひとつです。
政治や法律などの大上段の話は社畜の実務にはほぼ関係ないので、どちらかというと、明日自分が会社で何をできるか、ということに焦点を当てたいと思います。
社畜の定義については上述しましたが、僕は社畜こそ今の日本の競争力を支えていると信じています。
会社、上司の方向性に疑問を持ち衝突したり、部下のことを真摯に思うが故に上と下の板挟みで悩んだり、案件の失敗に酷く落ち込んだり、皆会社という組織に振り回されながらも必死で生きています。
僕も一端のプライドだけはあるので、社内のトップエリートにはなれなくても、なんとか会社内でも一目置かれる存在になりたいと日々もがいています。
そんな日々で思うこと、考えていることをこのブログでつらつらと書いていきたいと思います。
それが、僕と同じように社畜として日々もがいている方の参考になったり、勇気になったりすれば幸いです。
自己紹介等々はブログの中で随時していきます。
また、このカテゴリー以外にも、日々思っていることや吐き出したいことについても気まぐれで書いていくつもりです。