続・鬱間近の社畜の君へ
新人研修時代、僕の度重なるミスが担当講師の逆鱗に触れ、会社を辞める以外の選択肢が考えられなくなるほど追い詰められました。
絶望のまま講師の追い込み部屋を後にし、辞表を書くための便箋を買いに行こうかと研修所を出ようとしたところを、別の講師に呼び止められました。
その別の講師は事情を理解していたようで、僕と話すために声をかけてくれたようです。
ただ、まさか僕がそこまで追い詰められていたとは思ってなかったようで(そりゃ研修ですからね…)、動揺しつつも、必死に僕が辞表を書くのを止めてくれました。
気がついたら僕は泣いていました。涙が止まりませんでした。
不思議なもので、あんなに重たい恐怖と悲しみの中にいたときは涙なんて全く出なかったのに、人に優しくしてもらった途端に気が緩み、一気に感情の波に押しつぶされました。
次の日、僕は辞表ではなく反省文を提出しました。
僕を追い込んだ例の担当講師はそれに納得がいかなかったようで、クラスの朝会にて先日の僕のミスの内容について言及し、 (僕の名前は伏せて)「こんな奴はいらないので、早急に身の振り方を考えるように」と言いました。
そこからの日々は地獄でした。
もともとその担当講師は熱血系でよく皆に話しかけるキャラだったのに、僕だけは徹底的に無視をされるのです。
クラスの連中は同情さえすれど、もともと僕のミスがきっかけですし、研修中は講師が絶対的な存在に映っていますから、誰も講師のやり方に異を唱えるものはいませんでした。
僕は段々と、こんなクソみたいな人間を講師にする会社そのものに対して不信感を持つようになりました。
そういう心境になるにつれ、この会社に就職できたことへの誇りやプライドなんてものはなくなり、「研修が終わったら第二新卒として就職活動をしよう」と真剣に思うようになりました。
こうなると、もはやこの講師に何を言われようが怖くはありません。ムカつくけど、ただの可哀想なおっさんだな、と思えるようになったのです。
もちろん当時の僕は若く、それだけで市場価値があると思っていた時代の話ですけどね。
恐怖がなくなったことで、担当講師に対しても堂々と振る舞えるようになりました。
一度、講師統括、担当講師、及びクラス全員の前で数分間のスピーチをする機会がありました。
テーマは自由。
僕はマネジメントに関するとあるビジネス書を読み、メインテーマのひとつになっていた「褒めて伸ばすこと」について、いかにそれが合理的で有効な指導方法なのかを熱く語りました。そして同時に、感情的に怒りをぶつけるような叱り方がいかに稚拙で不毛な行為かについても熱く語ってやりましたよ。
もう気持ちが入ってますからね。
終わったときには講師統括から、今までで一番面白いスピーチだったと言ってもらえました。
担当講師は複雑な顔をしていたのを覚えています。
そして僕と担当講師の間の溝は埋まることのないまま新人研修の期間は終わり、僕はあまり期待されてない人材として営業店舗に送り出されました。
僕はもう会社には期待していなかったので、それなりに覚悟を持って配属店舗に赴きました。もちろん転職活動のタイミングも考えていました。
しかし、その営業店舗で待っていたのは、威厳と人格を兼ね備えた上司だったのです。(この方はその後役員になられました)
そしてお店の先輩達も緊張感の中で生き生きと仕事をしているように見えました。
厳しくも論理的に、ときに愛情をもって指導をしてくれる上司と諸先輩方の中で揉まれるうち、転職したいという気持ちは消え、早く先輩方と同じように仕事が出来るようになりたいと強く思うようになっていました。
つまり、何が言いたいかと申しますと、自分をとりまく環境が、仕事のモチベーションや健全な心身を維持するために最も大切であるということです。
今が苦しければ、環境が変わるのを待つか、待てないのであれば自ら環境を変えるように動くか、どちらかしかないかと。
僕の場合は運良く環境が変わりましたが、定期的な転勤などが無い方は、思い切って行動あるのみ、と思います。